フォトギャラリー もくじサハリン州の人口ニジェガローツキー・ドヴォール

ユジノ=サハリンスク(豊原)にて。
1989年8月11日撮影

日本では昭和から平成に改元された1989年。ソ連ではゴルバチョフ政権4年目に入り、ペレストロイカ(建て直し)、グラスノスチ(情報公開)政策の影響がついに極東にもおよび、閉ざされた宗谷海峡の国境の開放につながりました。
北海道稚内港をソ連船「サハリン9号」で出港、夜明けのホルムスク(真岡)入港に始まるサハリンの第一歩。第二次世界大戦後、初めて一般観光客に開放された当時のソ連統治下、旧樺太・サハリンの街々の様子をご紹介します。

    1989年8月当時のレート: 1ルーブル(旧) = 200円

ツーリスト・ホテル

ユジノ=サハリンスク(豊原)のソ連国営ツーリスト・ホテル。
殺風景な入口に派手な共産党スローガンといういかにもソ連の地方都市らしいホテルである。
当時の日本はバブル経済の全盛期。両国のホテルの外観だけを見てのこの落差は、いささかショックであった。
1989年8月13日撮影
駅に近い自由市場

ユジノ=サハリンスク駅に近いバザールの光景。
サハリン州の州都ユジノ=サハリンスク市はかつての樺太庁所在地・豊原市で、日本領土時代には樺太唯一の市であった。市街地は豊原の碁盤の目状の都市計画を踏襲しているものの、豊原の残滓はサハリン州立郷土博物館(旧樺太庁博物館)の他は数える程しかない。
1989年8月13日撮影
コルサコフ(大泊) 旧船見町の丘より

ソ連時代のペレストロイカ期に初めて外国人観光客に解放されたコルサコフ市。北海道に対峙するアニワ(亜庭)湾の湾奥に位置するこの港は、国防上の理由からか、秘密のヴェールに包まれていた。
1989年8月11日撮影
コルサコフから亜庭湾へ

コルサコフ(大泊)からオジョルスキー(長浜)までは亜庭湾にそった土道を行くが、コルサコフ市街の南部、トマリ=アニワ岬(対馬岬)を迂回し、やや内陸を通って亜庭湾へ出る。
写真は旧大泊町と深海村の境界あたり。
樺太時代の地誌によると、大泊―長浜間の亜庭湾岸には多くの漁業集落があったが、プリゴロドノエ村(旧深海村女麗)に数軒の小屋がある以外には無人地帯と化していた。
1989年8月11日撮影
オジョルスキー(長浜)の遠景

亜庭湾岸の街道から見たオジョルスキー(長浜)の街並み。
現地の昆布売りの東洋人のお婆さんは「長〜い浜だから長浜だよ」と達者な日本語で語ってくれたのが印象的だった。
樺太時代の長浜は昆布の一大産地であった。
1989年8月11日撮影
ドリンスク(落合)の製紙工場

ユジノ=サハリンスクの北40キロに位置するドリンスク(落合)は樺太時代より製紙工場で発展した街。
写真に映るのは製紙工場の施設のひとつ。日本統治時代の施設を引き継いでいるという。
1989年8月12日撮影
ドリンスク(落合)の駅前広場

ドリンスク駅前広場の光景。なんとものどかである。
戦前の地図(5万分の1地形図「樺太落合」)を見れは駅前一帯は所狭しと家屋が密集しているが、ソ連統治下で様相は一変している。
1989年8月12日撮影
オホーツコエ(富内)の佇まい

オホーツコエ(富内)村の寂しい佇まい。
街を横切る水路は、トゥナイチャ湖(富内湖)とオホーツク海を結び、湖は汽水湖である。
1989年8月13日撮影
チャプラノヴォ(二股)市街

ユジノ=サハリンスク(豊原)からホルクスク(真岡)へ向かう車中で見かけたロシアの農村集落。
地図によるとチャプラノヴォ村(旧清水村大字二股)である。
手前に線路が見えるが、戦前の地図(5万分の1地形図「広地」)には、線路沿いに数件の家屋がある程度である。写真に映る市街地はソ連時代の建設であることが分る。
1989年8月13日撮影
ホルムスク(真岡)の駅前

西海岸の要港ホルムスク(真岡)。
駅前に近いこの辺りは、樺太時代には賑やかだったようだが、1989年には、このような寂しい所になっていた。1992年には駅も廃止されている。
1989年8月13日撮影
    

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